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2019年11月に御紹介した情報はコチラをチェック
■ 「義仲・巴」ラジオ紀行  2019年11月放送 ■


#32「富山県」【2019.11.5放送】

富山県教育文化会館は、今年、開館45周年を迎えます。
これを記念して今月24日 日曜日の午後3時から、
音楽朗読劇「凛音×天声(りんね てんせい)」が上演されます。
この作品は、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる
「平家物語」の中の一節「木曽の最期」をもとに、
教科書や歴史書にも載っていない、義仲の知られざる姿を描いています。
脚本・演出を手がけたのは江嵜大兄(えざき おひね)さん。
音楽朗読劇という名のとおり、朗読に加えて、
生演奏や映像を加えたさまざまな演出により、
耳だけではなく、目でも楽しむことができる作品です。
また江嵜さんは、上演にあたり、富山県内の義仲・巴のゆかりの地である、
小矢部市の埴生護国八幡宮、南砺市の巴塚公園、高岡市の弓の清水(しょうず)や
般若野(はんにゃの)古戦場などを自ら訪れ、
その魅力をホームページ上で紹介されています。
朗読は4人の声優が担当し、木曾義仲、巴御前、今井兼平、覚明(かくみょう)を演じます。
義仲が仲間たちとともに平家打倒のもと京を目指し、
新しい時代を切り拓こうとした生き様は、時代を越えて、
観る人々の心を強く揺さぶります。
公演の詳細、チケットの購入などについては、
富山県教育文化会館までお問合せください。
皆さまのご来場をお待ちしています。

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#33「埼玉県嵐山町」【2019.11.12放送】

今から約10年前の平成21年8月、富山・長野の両県が中心となり、
「義仲・巴」広域連携推進会議が設立されました。
これは、義仲の生涯で最大の戦いといわれる「倶利伽羅峠の戦い」の地
「小矢部市」や巴御前の終焉の地「南砺市福光」がある富山県と、
義仲と巴が幼少期を過ごし、打倒平家の旗挙げの地となった「木曽町」がある長野県、
この両県知事が懇談した際、こうした「義仲・巴」ゆかりの地を
活かした広域観光ルートの形成が話題となったことがきっかけでした。その後、石川県、埼玉県、滋賀県、神奈川県がこの会議に加わり、
現在、6県35市町村、あわせて41の自治体が連携して観光振興、
地域活性化、ふるさと教育、さらには大河ドラマ化に向けた活動を展開しています。
こうした都道府県域を越えた広範囲にわたる取組みは、
全国的にも大変珍しく、最近では歴史雑誌やテレビ番組などで、
義仲や巴の魅力について取り上げられることも多くなってきています。
「義仲・巴」広域連携推進会議では、毎年、各県・市町村の担当者などが一堂に会し、
それぞれの取組み、今後の活動などについて情報交換を行っています。
11回目となる今年は、義仲生誕の地「埼玉県嵐山町」で開催されます。

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#34「富山県小矢部市」【2019.11.19放送】

「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」
この句は小矢部市の倶利伽羅古戦場に残されている句碑に刻まれた、
松尾芭蕉の一句です。
江戸時代の俳聖(はいせい)と仰がれる松尾芭蕉は、
義仲の悲劇に満ちたその生き様に共感し、
義仲を慕った俳人として広く知られています。
この句は、芭蕉が「奥の細道」で東北から北陸を通って俳諧の旅を続ける中、
現在の福井県南越前町にある「燧ヶ城(ひうちがじょう)」において、
源平合戦を偲んで詠まれたものとされていますが、江戸時代中期に、
今の石川県津幡町の俳人 河合見風(かわいけんぷう)の手によって、
義仲の生涯で最大の合戦の地である倶利伽羅峠に句碑が建立され、
その後、句碑の風化に伴う再建を経て今に至っています。
また、芭蕉の弟子 曽良(そら)が残した日記では、
元�N、1689年の7月、芭蕉と曽良が現在の高岡市から金沢市までを
徒歩で移動し、途中、埴生護国八幡宮や倶利伽羅峠を訪れたと記され、
夏の暑さで体調を崩した芭蕉は、峠を駆け足で通り抜けたとも伝えられています。
義仲の生涯に深い哀憐(あいれん)の情を抱き、
自らの亡きあとには義仲の隣で眠りたいと言い残したとされる松尾芭蕉。
句碑の前に立つと、この地で義仲に想いを馳せた芭蕉の姿が目に浮かんできます。

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#35「富山県氷見市」【2019.11.26放送】

富山県の西北部に位置する氷見市。
富山湾で獲れる「寒ブリ」をはじめ「きときと」な海の幸に恵まれ、
海越しの立山連峰をのぞむ景勝地としても広く知られています。
古く奈良時代には、越中国守 大伴家持もこの地を訪れ、
「万葉集」にもたくさんの和歌が残されていますが、
この氷見市にも、義仲にまつわるいくつかの伝承が残されています。
「源平盛衰記」や「平家物語」によると、義仲は倶利伽羅峠の戦いで
平家の大軍を打ち破った後、能登国と越中国の国境にある
志保山(しおやま)に向かったとされています。
これは平家軍と戦う叔父 源行家(みなもとのゆきいえ)の援軍として
自ら軍を率いて駆け付けたもので、義仲軍は氷見湊(みなと)を通過したと記されています。
またこのとき、川の深さを測るため、鞍を置いた馬を追い入れたという伝承や、
この地で義仲が放った白羽の矢が落ちたなどという伝承が残されており、
これらが鞍川(くらかわ)、一刎(ひとはね)といった
現在の地名の由来になったのではないかともいわれています。
このほか、国境付近に位置する臼ヶ峰(うすがみね)や義仲道なども、
義仲が平家討伐の際に通った峠道として今も伝えられています。
義仲が快進撃で駆け抜けた道のりに、皆さんも触れてみてはいかがでしょうか。