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■ 「義仲・巴」ラジオ紀行  2019年12月放送 ■


#36「富山県小矢部市」【2019.12.3放送】

平安時代末期、打倒平家をめざして京の都に進軍した天才武将「木曾義仲」。
義仲の生涯で最大の戦いといわれる倶利伽羅峠の戦いの地「小矢部市」には、
源平時代が描かれた「平家物語」や「源平盛衰記(じょうすいき)」には
記されていない多くの史跡が残されています。
史跡の由来を記した石碑を建立(こんりゅう)したのは、
地元の礪波山旧蹟保存会。
保存会は明治42年、大正天皇が皇太子時代に北陸をご訪問されたことを記念して設立され、
その後、大正2年に倶利伽羅の合戦ゆかりの各地に石碑を建てました。
まずは、綾子(あやこ)地区の「聲乃口(こえのくち)」。
倶利伽羅峠の戦いにおいて、義仲軍が平家軍に夜襲をかける際、
この地において太鼓や法螺貝を鳴らし、一斉に鬨の声をあげ、
敵陣に向けて攻め入った場所といわれています。
また、野端(のばな)地区の「将軍塚」は、戦いであげた敵の首(しるし)を埋めた首塚として、
あるいは、義仲が戦勝を祈願して鎧兜を埋めた塚として伝えられています。
ほかにも、平家の大軍を相手に、義仲の軍勢が地元の越中武士の協力のもと、
地の利を活かして様々なルートから軍を進めた足跡を記した石碑が数多く残されています。
石碑めぐりを通して、源平合戦に想いを馳せてみては
いかがでしょうか。

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#37「長野県松本市」【2019.12.10放送】

豊かな自然に囲まれた長野県松本市。
本州及び長野県のほぼ中央に位置し、平安時代には信濃国府が、
中世には信濃守護の館が置かれ、また江戸時代には松本藩の城下町として栄えるなど、
今でも数多くの歴史的建造物がみられます。
なかでも、松本市今井地区には、今井兼平ゆかりの史跡、
伝承などが数多く残されています。
兼平は、義仲、幼名駒王丸が、父 中原兼遠(かねとお)を頼って
武蔵国から信濃国に逃れてきて以来、義仲、巴御前らとともに幼少期を過ごしました。
平家討伐の際には、義仲四天王の一人として仕え、現在の滋賀県、
近江国 粟津原(あわづがはら)の戦いにおける義仲の壮絶な最期まで
付き従った武将として「平家物語」にも二人の深い絆が描かれています。
今井神社は、地元の人々から「兼平神社」とも呼ばれており、
当時、兼平の館があった場所に神社が建てられたものといわれています。
また近くには、兼平によって再建されたとされる宝輪寺(ほうりんじ)が、
さらにお寺から少し北に進んだところにある諏訪神社の境内には、
「今井四朗兼平形見」と記された石碑が祀られています。
武勇に優れ、一生をかけて、義仲への忠義を尽くした今井兼平。
その生涯は現在も多くの人々によって語り継がれています。

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#38「埼玉県熊谷市」【2019.12.17放送】

埼玉県熊谷(くまがや)市。
熊谷市は、荒川や利根川の水に恵まれた肥沃な大地と豊かな自然環境を有する地域として、
また、晴れの日、快晴日数が日本一であることでも知られています。
この熊谷市には、義仲ゆかりの武将 斎藤実盛が開いたとされる寺院、
妻沼聖天山(めぬましょうでんざん)があります。
実盛は、越前国、現在の福井県で生まれますが、13歳の時に斎藤実直(さねなお)の養子となり、
武蔵国長井庄(ながいのしょう)に移り住みます。
その後、武蔵武士として数々の武功を立てますが、
義仲、幼名駒王丸が2歳のとき、敵方でありながら幼い駒王丸を不憫に思い、
義仲を信濃国へ逃します。
そして、のちの篠原の戦いにおいて、敗走する平家軍のなかにあってただ一騎、
義仲軍の前に踏みとどまり、劇的な最期を遂げました。
実盛は、西暦1179年に、これまで戦に倒れた兵士の供養、
そして自らが治める長井庄の平和と繁栄を祈願して妻沼聖天山を開いたといわれています。
本殿である歓喜院聖天堂(かんぎいんしょうでんどう)は、
平成24年に国宝に指定され、あらゆる良縁を結ぶご利益がある、
信仰の拠り所となっています。
また実盛にまつわる悲劇は、歌舞伎「実盛物語」、謡曲「実盛」、
日本舞踊「実盛慕情」などを通して、今も語り継がれています。

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#39「長野県木曽町」【2019.12.24放送】

長野県木曽町。県の南西部に位置し、西に御嶽山、
東には中央アルプスの木曽駒ケ岳がそびえています。
町の中央には木曽川が流れ、夏と冬、昼と夜の寒暖差が大きい気候にあって、
四季折々の自然風景を楽しむことができます。
こうした豊かな自然環境のもと、義仲は、中原兼遠(かねとお)の子である、
兼平、兼光、巴とともに学問を深め、武芸に励みながら、
生涯を共にする深い絆を育んでいきました。
木曽町には、義仲らが育ったとされる「中原兼遠屋敷跡」、
その近くには、幼少期に手習いをしたとされる
「手習天神(てならいてんじん)」が残されています。
また、「巴淵(ともえがふち)」と名付けられた深い淵は、
木曽川が山の麓を迂回して形づくられたもので、
この淵に棲む竜神が巴に化身して、義仲を守ったという伝説が残されています。
さらに福島地区の長福寺(ちょうふくじ)には、
巴のものとされる長刀(なぎなた)が寺の宝として今も大切にされています。
このほか、木曽三大寺(さんだいじ)の一つである興禅寺(こうぜんじ)の境内には、
「義仲の墓」があります。義仲は粟津原の戦いにおいて最期を迎えますが、
その際、巴は落ち延びるように諭され、義仲から遺髪を託されたとされており、
このお墓にはその遺髪が納められているといわれています。

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#40「石川県白山市」【2019.12.31放送】
 
石川県白山市。加賀地方の中央部に位置し、
白山国立公園や県内最大の河川である手取川など豊かな自然に恵まれています。
海岸部から山頂まで2,700メートルに及ぶ標高差を誇る白山市にも、
北陸における源平合戦ゆかりの伝承が後世に語り継がれています。
越中国と加賀国の国境における倶利伽羅峠の戦いに勝利した義仲軍は、
京を目指して一気呵成に軍を進めます。
しかし、平家軍を追って南下する義仲軍は、手取川の氾濫、洪水に行く手を阻まれ、
しばらくの間、現在の白山市源兵島(げんぺいじま)地区にとどまることになります。
源兵島(げんぺいじま)とは、源氏の「源」(みなもと)に、
兵士の「兵」、そして「島」と書かれる地名で、
当時、土地の浸水により「源氏の兵士たちが留まっていた」状況が、
その名の由来になったのではないかといわれています。
また、手取川という川の名前についても、義仲たちが川を渡ろうとした際、
流れが強く、なかなか渡ることができなかったため、
多くの兵士が互いに手を取り合って渡ったことに由来するといわれています。
このほか、義仲が川の減水と戦勝を祈願し、兜を奉納したとされる笠間(かさま)神社や、
義仲の進軍ルートとされる木曽街道など、
当時の足跡をたどることができる史跡、名所が数多く残されています。